どうして西脇市が「黒田官兵衛の里」なの?
黒田官兵衛の生誕地は、定説では姫路市であると言われています。ただ、確たる証拠はなく、貝原益軒が編さんした「黒田家譜」によるところが大きいのです。
黒田氏および黒田官兵衛の西脇市黒田庄町黒田出自説は、昭和47年(1972年)に旧黒田庄町で刊行された「黒田庄町史」で発表されていますが、当時はあまり注目されませんでした。しかし、平成23年(2011年)、播磨黒田氏研究会が、「播磨古事」の研究過程で、黒田庄町黒田の荘厳寺の「荘厳寺本黒田家略系図」に着目され、その研究を深め、黒田氏および黒田官兵衛は黒田庄町黒田の出自であるとの説を主張されました。この研究成果は同研究会において積極的にアピールされ、現在注目される説となっています。
次に示す資料は、西脇市が官兵衛ゆかりの里であることを示す一例です。地元には、ほかにもさまざまな伝承や資料が残っています。
根拠となる主な資料
播磨古事
(九州の福岡藩が行った播磨の調査記録。文政12年(1829年)にまとめられたもの)
- 「小寺官兵衛祐隆(黒田官兵衛)は、播磨国多可郡黒田村の産まれである。その村名にちなみ、後に黒田氏に改めて、姫路城を相続して居城する」との記述がある。
- 「多田の古城は、筑前国主の御先祖の城跡」、「多田の城が攻められたときに、姫路へ脱出した若君が後の黒田家の太祖(官兵衛)である」など、当時の黒田村の伝承が村の見取図とともに記録されている。
荘厳寺本黒田家略系図(荘厳寺蔵)
(文化6年(1809年)ごろに荘厳寺に奉納された系図で、黒田氏の発生から滅亡までの歴代が記されたもの)
- 黒田氏は多可郡黒田村の発生で、代々黒田城の城主を継ぎ、官兵衛が小寺職隆の猶子(養子)となって姫路城を守ったと記されている。
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更新日:2021年03月31日