心のスケッチ(2022年度)

更新日:2023年03月31日

私のアイデンティティ【3月号】

「日本で生活していたとき、自分が何なのか分からなくなった…」20年前、旅先のブラジルで泊めていただいた日系人家族のお宅で、女性が打ち明けるように語ってくれた言葉です。

1990年代、ブラジルでは「出稼ぎ」で国外へ行く人がたくさんいました。一方、日本では労働者不足問題を解決するために入国管理法を改正。長期滞在ビザが発給されました。

ブラジルに移住した祖父母を持つ日系3世の彼女は、日本で働くことを大変喜んだそうです。「自分のルーツの国、日本で生活できる」彼女は期待いっぱいで日本にやってきて、3年間、関東にある工場で一生懸命働きました。「日本での良い思い出がいっぱいある」と笑顔で話してくれました。しかし、一つだけ、心に引っ掛かることがあるとも教えてくれました。

「ブラジルでは、日系人はブラジル生まれであっても、ジャポネーザ(日本人)と呼ばれることがよくある。でも、日本にいたときは、習慣の違いや日本語のぎこちなさから、「外国人」と呼ばれることがたくさんあった。私のアイデンティティって一体何なのか分からなくなって、本当に悩んだの…」「外国人とかでなく、一人の人として接したり、認めたりしてもらいたかったな…」

さて、西脇市内でも外国にルーツを持つ方と出会う機会が増えました。先日、西脇に住む外国人技能実習生を招いて、交流会が開催されました。母国の遊びを楽しんだり、一緒にコーヒーを飲んだりする和やかな会。参加しながら、ブラジルで出会った彼女の体験が思い出されました。その人がその人であることを大切にする人権尊重の取り組みが近くで広がっていることを目にし、力をもらえる時間になりました。

声を掛けてもらえるよろこび【2月号】

私はこの春に出産を控えており、「マタニティマーク」を身に付けています。マタニティマークとは、妊産婦であることを周囲の人に知ってもらい、周囲の人が配慮しやすくするためのマークです。妊娠初期など外見からは分かりにくい場合でも、マークがあると妊婦であることを示すことができます。

マタニティマークを付けていると、地域の子どもたちから「赤ちゃんいるの?」とおなかをなでてもらったり、「寒くなってきたから、温かくしてね」「荷物が重そうだけど大丈夫?」と声を掛けてもらったりすることが増えました。温かい声を掛けられるたびに、「うれしいなあ」と実感します。一方で、「よく見掛けるけど、そのマークってどういう意味なん?」「そんなマークがあるんやなあ、知らんかった」と言われることもあります。

内閣府が平成26年に実施した世論調査では、マタニティマークを「知っていた」と回答した人が53.6%、「知らなかった」と答えた人の割合は45.7%でした。調査から5年以上が経過し、この数字よりも認知度は高くなっているように感じますが、まだまだ「知らなかった」という人が多いかもしれません。

マタニティマークに限らず、他者からは分かりにくい体の内部障害などを周囲に知らせる「ヘルプマーク」や、耳が不自由であることを示す「耳マーク」など、身体状態や援助の必要を示すマークやシンボルはたくさんあります。

マークの意味を正しく理解し、皆さんに温かい声を掛けてもらってうれしかったように、支援や配慮などが必要な方へ私も声を掛けていきたいと思います。

子どもが子どもでいられる街に【1月号】

近所の公園で、毎日のようにキャッチボールをしている姉弟がいます。わが子と野球をしているときに声を掛けたことが縁で、話をするようになりました。ある土曜日、姉弟が公園で遊んでいました。遊んでいるのは姉弟の2人だけです。きょうは学校行事で登校日のはず…と思いながら、弟に尋ねました。すると「お母さんの代わりに姉ちゃんが朝早くからお弁当作ってくれたんやけど、お母さんが病院に行くことになって…」と答えが返ってきました。もしかすると、姉弟はヤングケアラーかもしれないと思いました。

ヤングケアラーとは、本来大人が担うと想定される家事や家族の世話などを日常的に行う子どものことです。令和2年度に厚生労働省が実施した「ヤングケアラーの実態に関する調査研究」では、公立中学2年生の5.7%(約17人に1人)、公立全日制高校2年生の4.1%(約24人に1人)が「世話をしている家族がいる」と回答しています。家事や家族の世話をするのは当たり前と考えられていた時代もありましたが、核家族化、少子高齢化、ひとり親家庭の増加などさまざまな要因で、当たり前とはいえない状況になっています。また、日本には「家族の問題は家族で解決するべきだ」という意識が根強く残っており、自分自身がヤングケアラーだと自覚していないこともあると考えられています。

「お姉ちゃんが頑張って作ってくれたお弁当、感謝して食べないとね。困ったことがあったら教えてね」。当事者の生きづらさに周りが気付き、声を掛け、手を差し伸べられる、そんな街をつくりたいと思いました。

街角の風景から【12月号】

私たちの周りには、さまざまなところでバリアフリーやユニバーサルデザイン化が進んでいます。センサー付きの蛇口、段差を解消するスロープ、幅が広い自動ドアの玄関など、ハード面で数多くの改良が進んできました。これらの改良で、障害がある方や高齢の方も、より快適で便利な生活ができるようになってきました。

ところが、視覚に障害がある方の立場で街角を眺めてみると、「おや?」と思うことがあります。例えば、街のあちこちにある点字ブロックは、視覚に障害がある方が一人で行動するためには欠かせないものです。白状と足の裏の感覚で、進行方向や停止位置が分かります。しかし、どこに点字ブロックがあるのか、障害がある方が知っていることが前提になります。

先日、生まれつき全盲で、現在は盲学校で教員として勤める方とお話する機会がありました。その方に、どうやって点字ブロックまでたどり着いているのかと尋ねると、「初めて行く場所は怖くて怖くて、とても一人で行動することなどできません。点字ブロックがあるのかどうかも分からないですから。誘導してくださる方と同じ場所を何度も歩き、点字ブロックがある場所を体で覚え込んで、ようやくそこを一人で歩けるようになるんですよ」と答えてくださいました。

ハード整備は欠かせません。しかし、どれだけハードが整えられても、周囲の支援(ソフト)がなければその整備を生かすことはできません。障害のある方は、整備された施設や設備を活用するために、大変な努力をしています。見慣れた街角の風景ですが、この風景をみんなが生かすために私たちは何ができるのか、一緒に考えてみませんか。

笑顔のエネルギー【11月号】

昨年、初孫が生まれ、先月で1歳半になりました。最近は覚える言葉が増えて、私を「じいじ」と呼んでくれるようになりました。「孫は子とは違うかわいさがある」といわれますが、その意味が分かってきました。毎日、孫の笑顔を見ることが楽しみで、その笑顔に元気をもらっています。

今、振り返ってみれば、若い頃は多くのストレスを抱えても、子どもたちの笑顔を見ることで日々頑張れていましたし、妻の笑顔には今も元気づけられています。私が幼い頃は、母親や父親の笑顔が見たくて、一生懸命に学校で勉強したり、家でお手伝いをしたりして頑張っていた覚えがあります。こうしてみると、私はいつも家族の笑顔にエネルギーをもらって生活してきました。

心理学者のアルバート・メラビアンによると、コミュニケーションには3つの要素があり、言葉による言語情報が7%、声のトーンや口調による聴覚情報が38%、表情や態度による視覚情報が55%で成り立っているそうです。さらに、表情が与える印象を調査した研究では、笑顔には人によい印象を与え、安心させる効果があるそうです。このことから、「笑顔」は人に安心を与える、大切なコミュニケーションの一つであると言えます。

私は、家族をはじめ、周りの皆さんの笑顔にエネルギーをもらって毎日を過ごせていることに感謝し、みんなにも笑顔のエネルギーを与えられる存在でありたいと思っています。

皆さんも、笑顔のエネルギーをお互いにいっぱいチャージして、あしたからも元気で頑張りませんか。

幸せの価値観【10月号】

 みなさんは「ケレケレ」という言葉をご存知 でしょうか?これは、南太平洋の島国「フィジ ー」の言葉で、日本語にすると「分け合うこと、共有すること」と訳され、現地では「お願い」や「ください」といった意味で使われています。フィジーの人たちには「自分のものはみんなのもの、みんなのものは自分のもの」という感覚が根付いており、ケレケレと言ってさまざまなものを分け合い、助け合いながら生活しているそうです。その対象は、衣服や食べ物、お金や子育てまで多岐にわたり、フィジーを訪れた多 くの日本人はケレケレの文化に驚くようです。

このことを教えてくれた林一平さんは、JICA(国際協力機構)青年海外協力隊員として2年間フィジーに滞在し、国際協力に取り組まれました。日本とは大きく異なるフィジーの文化に面白さを感じ、フィジーのように互いに支え合えば、「気持ちを楽に、ゆとりある生活ができるのでは」と思ったそうです。

フィジーは決して経済的に恵まれた国とはいえませんが、アメリカの世論調査会社の世界幸福度調査で1位を3度も獲得するほど、幸福度の高い国です。たとえ困ったとしても頼れる人、 助けてくれる人が身近にいるという安心感、誰かの役に立っているという支える側の自己有用感が幸せを感じる一因になっているのかもしれません。

私はどちらかと言うと「他人に迷惑を掛けてはだめだ」という意識が強く、なるべく自分の力で解決しようとして無理をすることがあります。一方、パートナーは近所のママ友に子どもを預けたり、逆に預かったりと、助け合いながら生活しています。私も「ケレケレ」の精神を上手に取り入れてみようと思います。

きょうの夕飯を作るのはどっち?【9月号】

もし、夫婦共働きだったら、帰宅したときに部屋に灯っている明かりを見て、あなたは「ほっ」としますか。「はっ」としますか。

この質問に対し、少し前までは「男性は仕事優先、女性は家庭優先」という性別役割分担意識から、男性は「帰ったら夕飯ができている」と「ほっ」とし、女性は「早く夕飯を作らなくては」と「はっ」とすると回答する割合が多かったようです。

令和2年版厚生労働白書によると、男性雇用者世帯のうち、共働き世帯の割合は66.2%となっています。専業主婦世帯より共働き世帯が多い現代では、夫婦間の理想的な家事・育児分担比率は「夫5:妻5」だといわれています。しかし、内閣府の家事・育児分担比率の調査では「夫1:妻9」という回答が31.6%で最も多く、次に「夫2:妻8」が24%、「夫0:妻10」という回答も9.6%あったと発表されており、実際は女性の家事負担が大きいことが分かります。

また、家庭の中だけでなく、男性が育児休業を取得すると驚かれたり、出張や残業が多い部署に女性を配置しにくいと感じている人がいたりするなど、まだまだ「男性は仕事優先、女性は家庭優先」という意識が根強く残っているようです。

私の家庭も夫婦共働きです。最近は「どっちが夕飯をつくろうか」「洗濯しておこうか」と声を掛け合うことが増えました。家事分担について、夫婦で意見がぶつかることもありますが、話し合いをしながら夫婦間のバランスが取れてきたように感じています。帰宅した時に部屋に灯っている明かりを見て、お互いに「ほっ」とできるような、そんな家庭を築いていきたいと思います。

地下鉄での出会い【8月号】

先日、大阪で久々に地下鉄に乗った時、40数年前の出来事を思い出しました。

今では車いすに乗っている方を見かけることは珍しくありませんが、当時はめったに見かけることはありませんでした。そんな折、車いすに乗った方とその介助者の方が、地下鉄の階段を降りられずに困っておられる場面に遭遇しました。それは、西脇暮らししかしていなかった私にとって、初めて目にする光景でした。私は良かれと思い、介助者の方に「一緒に運びましょうか」と声を掛けました。すると車いすに乗った方が、「私は物ではありません!それに声を掛けるのなら、私に対して掛けるべきでしょう!」と大激怒されました。確かにその通りです。車いすに乗られている方に「お困りですか。よろしかったらお手伝いしましょうか」と声を掛けるべきだったと猛省しました。

当時は、障害のある方も人目を気にしてか、なかなか外出できない時代だったように思います。それに加えて、ユニバーサルデザイン化が進んだ現在とは違い、ハード面でも障害のある方の社会生活は大きく制限されていました。このことがご縁で、この方と毎週出会うようになったのですが、後に「まず、私のような車いすに乗っている人間がいるということを社会に知ってもらわないと、私たちの生活は一向に良くならない。そのために私は、用もないのに毎日外出しているんですよ」と言われました。

「そよ風のように街へ出よう」がこの方たちの合言葉でした。しかし、実際は大きな向かい風だったことと思います。向かい風に立ち向かう勇気が、今のユニバーサルデザイン化が進んだ社会の礎になったのではないでしょうか。

母の運転免許証返納【7月号】

先日、私の母が自動車の運転免許証を返納しました。満87歳の返納は決して早いものではありません。しかし、これまで何度も返納を勧める私たちに対して、母は「買い物にも病院にも行けないようになるから」と拒んできました。

私たちの暮らす西脇市周辺では、自動車はなくてはならない大切な交通手段です。母にとって、それがなくなるということは、どんなに不便で不安か、よく理解できます。それだけに、私たちも強く迫ることはできませんでした。しかし、高齢者の交通事故のニュースを目にするたびに、母は母なりに悩んでいたようです。

そして、私と妻の退職を機に、母は運転免許証を返納することを決めました。優柔不断な私たちに対して、母の潔い決断には驚かされました。最近は、毎日のように、妻を誘って花を見に出掛けています。「これからは、もっといろいろな所へ連れて行ってよ。まだやりたいことがいっぱいあるんやから」と笑って話す前向きな母を見ていると、また一つ大切なことを教えられたように思います。そんな母が不安にならないように、妻だけでなく私も子どもたちも家族みんなで、母をできる限り支え、母との時間を一緒に楽しみたいと思います。

高齢者の方が免許を返納されるには、大きな決断が必要です。そして、最終的に決めるのはご本人です。それだけに、周囲の勧めに意固地になったり、一人で悩んだりする方があるのでしょう。大切なのは、周囲の家族がご本人の思いに寄り添い、返納後の生活を一緒に考え、話し合い、支え合っていくことなのではないでしょうか。

人と人とがつながるまちを次の世代へ【6月号】

テーマパークのCMに見入る4歳の息子に、「行ってみたいの?」と声をかけると、「コロナだから行けないでしょ」と返ってきました。行く気もないのに期待を持たせないでという息子なりの訴えなのか、思わず言葉を失ってしまいました。

新型コロナウイルス感染症への対応が日常になって2年と少し。これまでの生活を思い返してみると、人ごみを避けること、外出を控えることにすっかり慣れてしまっていたように感じます。インターネットショッピングが当たり前、遠くへ出かけようものなら重い腰をあげるのに一苦労。そんな親に遠慮をしてか、息子が遊びに連れて行ってとおねだりすることも少なくなりました。地域のイベントも軒並み中止となり、親子で参加する機会もありませんでした。世の中には、楽しいことや素晴らしい出会いがたくさんあります。コロナ禍以前は学校行事や祭りなどのイベントを通じて、さまざまな人とつながり、自分とは違った考え方に触れたり、新しい気付きを得たりすることができていました。日常生活に当たり前のように根付いていた「幸せ」を息子は体感したことがないかもしれないと考えることが多くなりました。政府は4月に長引く新型コロナウイルスの影響で深刻化する孤立・孤独の問題に関する調査結果を公表しました。孤独感が「しばしばある・常にある」と答えた人の割合は4.5%で、「時々ある」「たまにある」と答えた人を合わせると36.4%になることが分かりました。人と人とが出会い、つながり合う日常を心待ちにしている人はたくさんいるのではないでしょうか。

新型コロナウイルス感染症との生活も3年目を迎えました。まだまだ予断を許さない状況ですが、まちは少しずつにぎわいを取り戻しつつあります。できることから、さまざまな活動を通して心の触れ合うことのできるまちをつくっていきたいと思います。

戦争と人権【5月号】

連日、ロシアによるウクライナ侵攻の様子がテレビやインターネットなどを通して私たちに届けられています。そこには、私たちが心穏やかに見ることのできない映像があふれていました。「何とかしないと」「何とかできないのか」といった思いを持ちながら、ある人は募金活動に協力し、またある人は反戦平和の集会に参加しました。

ウクライナでは、子どもや幼子を抱く親、お年寄りらが自らの命を守るために必死に逃げています。3月には、ウクライナの人口(4200万人)のおよそ4分の1の人たちが家を追われ、国内外に避難しました。一方、男性のみならず多くの女性が、愛する家族と祖国を守るため、銃を手に取り戦場で自らの命をさらしてロシア軍と戦っています。

「戦争は最大の人権侵害」といわれています。戦争になれば多くの人間が命を失い、家を失います。さらには、祖国さえ追われます。この春、ウクライナの人たちが直面した悲劇を、私たちはどう捉えればよいのでしょうか。

ウクライナ侵攻のさなかで開催された北京パラリンピックの開会式で、国際パラリンピック委員会のパーソンズ会長は「今、世界で起きていることに強い衝撃を受けている。21世紀は戦争と憎しみの時代ではない。みんなが共生できる世界。差別や憎しみと無縁の、紛争のない社会を目指す」と語り、スピーチの最後に「PEACE(平和)」と力強く訴えました。そして閉会式のあいさつでは、「選手村では、違うことで分断されることはなかった。一つになれた。一つになることで希望が生まれる。共に生きることへの希望、平和への希望です」と話しました。

「21世紀は人権の世紀」ともいわれますが、何の努力もなしに、成り立つものではありません。一日も早く、ウクライナの大地から爆発音が消え、戦火の煙が見えなくなることを願ってやみません。

風に吹かれて【4月号】

連日、ウクライナ侵攻に関する痛ましいニュースが報道されています。ニュースを目にするたび、私はアフリカの熱く乾いた風を思い出します。

2004年7月の夜、私は世界最長のナイル川を北に向かうフェリーにいました。知らないことを自分の目で見たいという好奇心に突き動かされ、原付バイクで世界一周の旅に出発。その道中、南アフリカ共和国からアフリカ大陸を1年かけて北上し、大陸最後の国・エジプトとスーダンの国境目前にたどり着いていました。スーダン北部は、灼熱の砂漠地帯。バブーンと呼ばれる砂嵐に遭遇し、バイクが運転できなかったり、ナイル川の生水を飲まざるを得ず全身に発疹が出たり、気温50度を超える砂漠の悪路で荷物満載のバイクを押しながら進んだり。自分が選んだ旅とはいえ、試練が続く毎日でした。

さて、スーダンからエジプトに向かうには陸路がなく、船旅となりました。狭い船内の客室は、人と荷物でごった返し。熱風が吹く甲板にまで乗客が溢れていました。私は甲板組となり、たくさんの荷物とスーダンの乗客たちに四方を囲まれる中、何とか寝場所を確保しました。するとすぐ、隣人から「どこから来たんだ」「スーダンは好きか」と親しげに声を掛けられました。話しているうちに、彼らは紛争地から避難する難民家族だということが分かりました。

当時のスーダンは混沌としていました。南部では独立を訴える内戦。西部では世界最大の人道危機といわれるダルフール紛争。そして、東部では国境紛争から逃げてきた隣国・エリトリアからの難民問題。「僕たちは、ただ家族で平穏に生きたいだけなんだ。ひとまずエジプトへ逃げるけど、その先は何も分からない…」

ナイル川に吹く風が、とても息苦しく感じられました。甲板の上で私の周りにいるのは、今を生きるのに必死な人たちばかりでした。生まれた土地で生活する権利や安全に生きる権利を奪ってしまう争い。人権とは何なのか。今も考え続けています。

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西脇市教育委員会 教育管理部 人権教育課

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