地場産業「播州織」

更新日:2021年12月21日

播州織について

「播州織(ばんしゅうおり)」は西脇市を代表する地場産業です。わたしたちのまちは「播州織」の繁栄によって発展を遂げてきました。200年以上の歴史と伝統を誇る「播州織」の魅力を紹介します。

播州織シャツ

播州織の概要

「播州織」は江戸時代中期(11代将軍徳川家斉の治世)の寛政4(1792)年に比延庄村の宮大工飛田安兵衛(ひだやすべえ)が京都西陣から織物の技術を持ち帰ったのが起源と伝えられています。その後、農家の副業として、西脇市を中心に北播磨地域で生産されたため、当初は「播州縞(ばんしゅうしま)」と呼ばれていましたが、明治時代後期に「播州織」と称されるようになりました。

「播州織」の一番の特徴は、糸を先に染め、染め上った糸で柄を織る「先染織物」という手法を用いることです。国内先染織物の70パーセント以上のシェアを占めており、その独特の製法により、自然な風合い、豊かな色彩、素晴らしい肌触りの生地に仕上がり、シャツやハンカチ、テーブルクロスなど様々な製品に加工されています。私たちの普段の暮らしの中で「播州織」製品は身近にあるのです。

播州織の歴史

寛政4(1792)年に京都から帰郷した飛田安兵衛は、習得した知識を生かし織機を作りました。西脇市域をはじめ播磨国では、温暖な気候を生かした綿花栽培が江戸時代中期から行われており、自給自足で衣料が作られていたことから、綿花を原材料とした織物が村々に次第に広がり盛んになりました。また、西脇市域は、播州平野から中国山地に移行する地形の変換点に位置しているため、加古川・杉原川・野間川などの河川が集まっており、染色業に不可欠な水資源が豊富なことから、織物業が発展する基盤が整っていたといえます。

安兵衛は宮大工で、京都で菅大臣(かんだいじん)神社の再建に当たっており、そのかたわら織機製作を習得したことから、当初は「菅大臣縞」がなまり「勘大寺縞(かんだいじじま)」と言っていましたが、後に「播州縞」と改称しました。

明治時代初めには、後の津万村を中心に60~70軒の綿布業者がありましただ、この頃の主な産地は、現在の西脇市以北の多可郡でした。しかし、明治時代後期から力織機の普及により、家内工業から工場生産への移行に伴い、西脇市域で生産力が急激に増加しました。また、「播州縞」から「播州織」と改称したのもこの頃で、明治39(1906)年の「第1回多可・加東・加西連合織物品評会」の知事訓諭で使われたのが最初だと言われています。

大正期には鉄道が開通し、輸送力が大幅に強化されたことから、都市部での消費が拡大し「播州織」の名は全国に広がりました。第一次世界大戦までは国内出荷を専門としていましたが、大戦後は東南アジア向けの海外販路を拡大し、輸出向け中心の産地に転換しました。

集団就職の様子

昭和に入ると業者数・生産額ともに飛躍的に増大し、世界恐慌の影響は受けたものの日中戦争勃発前後には、年産1億平方ヤードに達し、業者数270軒を数える黄金時代を迎えました。この頃には、女子労働者を県内外各地、さらには朝鮮半島からも募集していました。

市内の織物工場

第二次世界大戦後、新製品の開発やアメリカ市場の開拓による販路拡大により、織機が一度「ガチャ」っと音をたてると1万円儲かるといわれた「ガチャマン景気」と呼ばれる空前の好況時期を迎えました。生産が拡大する中、西脇市は昭和27(1952)年播磨内陸部ではじめて市制を施行、昭和30年代には西日本を中心に、多くの女子労働者が集団就職で西脇市にやってきました。

その後も、新製品の開発や生産環境の改善により、海外市場における競争力を強化してきましたが、昭和40年代のドルショックやオイルショックなどの影響、さらには賃金の安い発展途上国での技術力の向上などにより、中小企業・零細企業が中心である産地は次第に厳しい環境におかれるようになりました。

さらに、昭和60(1985)年のプラザ合意以降、急激な円高の進行による輸出環境の悪化を受け、輸出中心の産地は大打撃を受けました。このため、従来の海外志向から国内市場の拡大に力を注ぐようになりました。その後もバブル景気の崩壊、デフレによる国内事業の低迷や安価な海外製品の流入により、厳しい事業環境が続いていますが、市場の多様なニーズを踏まえた多品種・小ロット・短納期に対応できる体制づくりやブランド化、産地組合組織の一本化など構造改革が進められています。

播州織の現状

播州織の生産量は、昭和62(1987)年の約3億8,800万平方メートルをピークに減少傾向にあり、平成28(2016)年の生産産量は約3,422万平方メートルと、ピーク時の約8.8%まで減少しています。また、昭和62年当時、約60%超を占めていた輸出品の割合は、平成28年には約14.8%まで減っています。

円高の進行以降内需拡大に取り組むため、大阪での見本市の開催を経て、平成7(1995)年からは東京での見本市を毎年開催。平成23(2011)年から平成25(2013)年は地元開催、平成26(2014)年から平成28(2016)年は神戸開催、平成29(2017)年は東京で開催するなど、市場ニーズに対応した様々な取り組みやITを駆使したQR対応をはじめとする生産や品質管理の合理化などを進めています。

こうした中、平成16(2004)年には、地元の繊維機械商社株式会社片山商店が中心となって、多種類の材質・太さの糸を繋いで織物を連続生産する世界初のシステム「アレンジワインダー」の開発に成功し、多品種・小ロットの生産ニーズへの迅速な対応ができるようになりました。このシステムは国内繊維産業の復活を目指す画期的なシステムとして、平成17(2005)年に「第1回ものづくり日本大賞」で最優秀の内閣総理大臣賞を受賞しました。

また、「播州織」の魅力と高い技術力を広くアピールし、産地自らが活性化に向けた新たなチャレンジとして、平成18(2006)年から「播州織ファッション特区事業」を展開しています。具体的には、播州織工場跡地を有効活用した「播州織工房館」の開設、産官学連携による商品開発やショップ経営を行うとともに、神戸市にアンテナショップを一定期間開設するなど、新たな取り組みを次々と展開しています。

わが国の繊維産業の構造的不況を解決する糸口は、なかなか見えないのが現状です。しかし、これまでの幾多の困難を乗り越えてきた「播州織」は西脇市発展の基盤であることから、再び栄光を目指し、一層の努力をしています。

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この記事に関するお問い合わせ先

西脇市役所 産業活力再生部 商工観光課

電話:0795-22-3111(代表)
ファックス:0795-22-6987​​​​​​​
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